【エッセイ】リケジョの実態、その四半期生を語る。

わたしは、こういうのもなんだが、正真正銘のリケジョである。リケジョなんて言葉自体が、あまり好きではないけれど、事実そうなのだから仕方ない。

こういうことを書くと怒られそうだが、別に特別小さい頃から理科が好きだったとか、機械いじりが好きだったとか、そんな立派なエピソードは何一つない。

ぶっちゃけ、理系科目のお勉強の点数が人よりそこそこ良かったから理系を選択し、なんかカッコよさそうだったから電気情報系を専攻(ホワイトハッカーに当時は憧れていた。どう考えてもブラッディ・マンデイの影響)し、そのまま某ホワイト企業(すみませんが、ここは流石にぼかす)に技術職としてなんとなーく入社したという、ボンクラっちゃーボンクラである。恵まれている環境で働かせてもらっている身の上で申し訳ないけれど、別に研究とか仕事とか、「理系的な何か」に情熱を燃やしているタイプでは無い。だから、こんなんと一緒にされるリケジョの皆さんには、大変申し訳ない気持ちだ。ごめんなさい。

ただ、こんなわたしでも、リケジョが抱える、ちょっとした生きづらさみたいなところは、もしかしたら一緒に語れるんじゃないか。そう思って、このエッセイを書いてみた。(もちろん、そんな生きづらさをものともしない人も、多いんだと思うけど。)

前置きが長くなったけど、暇な時にでも読んでください。それではどうぞ。


大学生のリケジョ

大学は、ほぼ男子校だった。男子校に紛れ込んでしまったのかな?という感じ。ハーレムが始まりそうな設定だけど、現実はそうではなかった。

先に言っておくが、「だから私はしんどいんです、辛いんです」みたいなことを言いたいわけじゃない。

と書いてばかりなのに恐縮だけど、大学の時は、正直辛かった。

なんでだろう。別に嫌なことされたとか、そういう訳ではないんだけどね。

教室で、女性は私含めて1人か、もう1人いたらラッキー、って感じ。休み時間は、男子生徒達は彼女ほしーと騒いでみたり、堂々とPCでエロ画像見てたりと、思い思いに過ごしていた。まぁまぁ高偏差値の大学だったはずだが、今思えばみんな子供だったんだな。

んで、正直結構傷ついた。一応私も生物学上「女」なんだけど、みんなにとっては、「彼女ほしー」の「彼女」候補からは最初から外れていて、エロ画像堂々と見れるほど、空気みたいな存在なんだ、と思って。

そんな状況だったのに、何故か生協のおばちゃんや父親からは、「理系は女性が極端に少ないから、リケジョはモテる。将来が楽しみだ。」なんて、今考えるとちょっと失礼なことを刷り込みのように言われていたりして、そのせいで「自分は希少な女性で、もしかしたらモテるかも」なーんて自意識だけは一丁前に高くて、そのギャップに苦しんだ、と思う。結局モテなかったし。

あと、ちょっとショックだったのは、当時付き合ってた彼氏から「え、院って女の人も行くんだ」なんて言われてしまったことだった。

どうやら、その彼によれば、うちの大学の院の進学率は約9割、男女比も9:1だったので、てっきり院に行くのはみんな男性とばかり思っていたらしい。正直、院進は自分の中で当たり前すぎて、そこに男だからとか、女だからとかいうパラメータが入ってくるなんて微塵も思ってなかったので、ぶっちゃけショックだった。え、それ無意識に女性を下に見てる…?院に行く女性は「特殊なヤツ」だって思ってるってこと…?って、当時はだいぶモヤモヤしたなぁ。

社会人のリケジョ

社会人になってから、少し楽になった。周りも大人だし、セクハラ気質な「オジサン」はもう少数派(年が上の方だと割合はちょい増えるが)で、良識のある「おじ様」が圧倒的多数だからだ。

まぁ、居心地の悪さを感じる時もあるにはある。広い会議室に、私以外全員男性の時とか。元々自意識過剰な節のある私は、なんだか「自分が女性であること(=自分が見られていること)」を、そういう時殊更に意識してしまって、なんだか必要以上に柔らかく話したり、身なりに気を使ったりして、決して「自然体」ではいられなくなってしまう。ジーッと見られながらする食事って、すごーくやりずらいと思うんだけど、感覚的にはそんな感じ。まあ、自意識過剰と言われればそれまでなんだけど。

中村うさぎさんの『愛という病』でも描かれていたけど、そういう時、確かに男性の「自然体」がとっても羨ましい。

彼らは彼らなりに「仕事」というフィルターで自己を演じてはいるんだろうけど、少なくとも「自分が見られていること」「自分が男性であるということ」を殊更に意識しながら、同時並行で仕事する、なんてことは無いんじゃなかろうか。

だから、「女性らしい新しい視点で」だの、「女性らしい気遣いが」なんて言われると、気まずいことこの上ないのだ。

いや、わかるよ。たぶん、組織のロバスト性のことを言いたいんだってことはさ。(ほんとか?)

でも、そう言ってる方々も、男性らしい視点で、男性ということを殊更に意識して、なんか成果を出せって言われてみぃや。

たぶん、めっちゃやりずらいぜ。

女であるリケジョ(というか私)

これはリケジョっていうより、私がただそういう女だと言うだけだと思うんだけど、私は社会人になってから二重整形をしている。そうしたら、明らかに「かわいくなったね」「きれいになったね」と言われることが増えて、それが最初はうれしかったりしたけど、そのうち全然うれしくなくなって、むしろ嫌気がさしてしまったりした。

「そんなに何回も言うほど、昔の私ってブスでしたか?」って思うようになっちゃって。ってか、言っている人たちは整形に気が付いているのかね。よくわかんないけど。

明らかに、前よりチヤホヤ、優しくしてくる人もいたりして。飲み会で、冗談っぽく「顔採用かと思ったくらいですよ~」とか言われたりして。

(いやいや、一応頭で採用してくれたはずよ~。昔は冗談でも顔採用とか言える顔ではなかったからね~~)と心の中で茶化しつつも、まぁ、ちょっと傷ついてしまった訳です。結局、自分の顔にも、技術力にも、どっちにも自信が無い自分だったから、そういう冗談が堪えてしまったというか。

もちろん、態度が変わらない(昔から丁寧な物腰で)、一貫してニュートラルなコミュニケーションを取ってくれるような人もいた。でも、その時はどうしても、態度が変わった人にフォーカスしてしまっていた気がする。

で、正直そうなってから、むしろ前よりも「自分は見られているんだ」っていう感覚が強くなってしまい、一時期苦しい気持ちになったこともあった。もっともっと綺麗にならないとー…って、何かに急き立てられるかのようにずっと考えていた。

“リケジョ”から開放される時

と、こんな私でも、「(コミュニティの中では希少な)女性である」「見られている」という感覚を、忘れられるときがある。

すごく単純なことだけど、それは自分がやっている仕事に、ひたすら没頭している時。

勉強して、新しい知見を手に入れた時。

やっぱこのふたつなんだよなぁ、私の場合。


まあ、辛いか辛くないかで言ったら、今はちょっとシンドイことの方が多いかな。

でも、自分のことを過剰にチヤホヤしない(人によって態度を変えない)、ニュートラルな人と一緒にいる、とか、

自分の仕事や、知見を増やすことに集中する、とか。

そうすればいいんだってことに気づいてから、ちょっと楽になった。

最終的には、「自分が(理系の中では)希少な女性であるという自意識」「見られているという自意識」を手放すことが出来たら、すごく楽になるんじゃないだろうか。

大学生の時のわたしへ

そう思うと、初めて自分が”リケジョ”と分類される人間なんだと知った、大学生の時の自分に、言ってあげたい。

そのままでいいよ、と。

大学生の時の自分は、可愛くないこと、ダサいこと、飲み会でハシャぐことができないこと、モテないこと、だからといって、研究や勉学に打ち込める情熱もないことに、とても悩んでいた。いくら勉強が出来ても、やっぱりかわいくなきゃ意味ないじゃん。いくら勉強ができても、「好き」って気持ちがなきゃ、「情熱」がなきゃ、意味ないじゃん、って。

“リケジョ”っぽくはない見た目の美しさも、”リケジョ”らしい頭の良さも、研究への情熱も、全部手に入れたかった。

でも、そんなことよりも、研究じゃなくたって、本でも、文章でも、音楽でも、私には、胸を熱くさせるような、熱中できるものがあった。努力することを厭わなかった。飲み会ではしゃげなくたって、誰かを傷つけることは言わなかった。

え??そんだけ?って昔のわたしは思うだろうか。でも、もっと歳を重ねると、それがいかに恵まれていて、尊いことかが、分かるようになる。偉そうに言って申し訳ないけれど、それって、本当に、すごいことだったんだよ。

万人にモテなくても、熱意のある優秀な研究者だと、褒めそやされることがなくっても。

誰かにとっての「なんかいいな、この人」に、あなたはすでになっていたと思うのだ。

わたしたちは、一人じゃない。未来のあなたが、陰ながらあなたを見守って、応援していることを、忘れないでほしい。

では。

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