【日記/エッセイ】『今日死ねばいい』という言葉が、救いになる日だってある

怒られそうなタイトルだけど、わたしにとってはその通りだったから、こう書いた。

実はこのタイトルを思いついたのは、今日ではなく、もっと数か月前、自分が鬱っぽかった時。

「鬱っぽく」と書いたのは、病院で診断されたわけではなく、仕事も休みがちながらなんとかこなしていたし、ご飯も食べれていたから。ただ、毎日訳もなく泣いていた。そして、未来に対する希望というものがなくなった。「これ以上はヤバい」という、とんでもない孤独感と、恐怖があった。

このタイトルを思いついた日は、確かに、散々な一日だったのを覚えてる。

自分が鬱っぽかろうとなんだろうと、仕事は関係なく進んでいって、そんな中で自分は、仕事の進捗があまりにも遅く、会議の予定も忘れがちだった。仕事の進捗が遅いことで、同僚は最初戸惑っていたが、徐々にイライラさせてしまい、その日は皆の前で、こっぴどく嫌味を言われたのを覚えている。また、午後一の会議の存在をその日の朝に思い出し、上司を焦らせ、イライラさせた。

何とか力を振り絞り、その会議をやり過ごしたが、その時私の頭を占めていたのは、「今日死ぬと思え。そうしたら、全部受け入れられる。本当に今日これが終わったら死ぬと思って、やり過ごそう」ということだった。手元のポストイットに、「今日、死ね」という言葉を、会議のメモをとる振りをしながらひたすら書き殴っていた。


今思えば、そんなことで、と思わなくもないけれど、その時は確かに、未来に希望が見いだせなかった。未来を考えると、絶望で死にたくなった。だから、『今日死ねばいい』という言葉が、救いになっていたのだ。


鬱っぽいとか、メンタルが病んでいるとか、言い方は色々あるけれど、とにかく、『なんか、とっても、シンドイ』とき。

そんなとき、『今日死ねばいい』という言葉は、過去や未来に囚われている自分の心を、『今、ここ』に引き戻す作用がある。


『今日死ねばいい』としたら、仕事の失敗も、こっぴどい失恋も、全部無に帰す。息のしにくい、つまらない、希望の持てないこの人生に、やっとピリオドを打つことが出来る。

もしそんなことが可能なら、最後の一日、あなたは何がしたいだろうか。会いたい人はいるだろうか。

最後くらい、好きに生きてみたっていいじゃないか。


そんなことを自分に問いかける日があったっていいじゃないかと、私は思うのだ。


では。

コメント

タイトルとURLをコピーしました